窓から見える外は完全な夜だ。ゲームの中の時間は午後の八時。舞台は再び泰紀の病室に移る。泰紀はベッドに横になり、法子の診察を受けている。室内もどことなく暗く見える。
「……脈拍とかは問題無いわね」
「そうですか……。あと、どのくらいで退院なんですか?」
「そうねぇ……。このまま左腕の傷口に問題が無ければ、後一週間くらいだと思うわ」
「一週間ですか……」
「私と会えなくなるから淋しいの?」
法子は悪戯っぽく笑う。緊張しているわりにはいい出来の演技だ。
「ははっ、かもしれませんね」
泰紀も法子に同調するように笑って答えた。
法子は手にしていたカルテに何やら書き込み始める。そして、泰紀の顔を見ずに口を開けた。
「泰紀君。あの子、霧島さんだっけ? 彼女の事、好きなの?」
「えっ?」
突然の質問に泰紀は言葉を詰まらせる。法子は構わず続ける。
「そうなんでしょ? その気持ち、分からなくもないわ。彼女を愛する事が出来ればこう思えるものね。右腕を失ったから、彼女に出会えたって」
「……」
どこか、嫌味のようなものがこもった言い方だった。それを聞き、泰紀の顔が険しくなる。
「それ、どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ」
「……何だか、ひっかかる言い方ですね」
「ひっかかるように言ったんだけど」
法子はペンを胸ポケットにしまい、カルテを膝の上に乗せた。泰紀の顔はより険しくなっている。
「……何のつもりなんですか? 彼女を好きになるなって事ですか。そんなの、俺の勝手じゃないですか」
「そりゃ、勝手だけどね。でも、きっと後悔するなって思って」
「後悔? 未来でも見えるんですか? 法子さんって」
今度は泰紀の言葉に嫌味が交じる。法子はさっきよりも笑顔になる。が、それはどこか影を持っていた。
「見えるわ。なにせ、私は一度見てきたんだもの。そういう、人達を」
「……何が言いたいのか、分かりません」
泰紀は法子のその顔を見ても、いい顔はしなかった。
私はありもしない心臓の鼓動を感じた。ここから、法子の、そして私自身も恐れていたシーンが始まる。私には何も出来ない。ただ、見守る事しか。……法子、頑張れ!
法子は静かに目を閉じた。そして、小さなため息をつく。あれは現実の法子なのか、それともゲームの中の法子なのか、どちらがついたため息なのか……。
そして、法子はゆっくりと立ち上がった。目を開ける。憂いを帯びた、欲情的な瞳だった。カメラがググッと法子に近付く。
「……」
「泰紀君……。私ね、不幸な子が好きなの」
「……えっ?」
法子はそう言うと、ベッドに乗り、泰紀に覆い被さるような形になる。金髪がダランと垂れ下る。その向こうで、泰紀が驚愕の顔を見せる。カメラが更に近付く。
「何のつもりですか? 法子さん」
「……」
台詞はあったはずだ。しかし、法子はそれを言わない。髪に隠れて、その表情は分からない。予想出来たアクシデント……。私は黙って、その様子を見つめる。
「法子さん……」
「私ね、あなたと霧島さんがあんなに仲良くなるとは思ってなかったわ。だから、私にも入る余地があると思ってた。でも、もうそれって無理かしら?」
ゆっくりと、震える手で、法子は白衣を脱いでいく。このゲームは十八禁ではない。だから、思い切り肌を露出する事は許されない。しかし、ギリギリのところまでは出さなくてはいけない。私は胸の内でもう一度叫ぶ。……法子、頑張れ!
「私ね、体には自信があるのよ。……泰紀君、私みたいな女、嫌い?」
「……嫌いも何も、無いですよ」
髪を掻き揚げる法子。その目にはうっすらと涙が滲んでいる。あれが演技なら、彼女は完璧な役者だ。しかし、きっとそこには恥ずかしくてたまらないという思いがあるはずだ。
顔を近付ける法子。それから逃れようとする泰紀。二人の距離はどんどん縮まっていく。
「やめてください……。俺はそんなの、望んでない」
「私は望んでいるわ」
この台詞で正しかったのか、はっきり覚えていない。ただ、ストーリー的には何の問題も無い。だから、私は何もしようとしなかった。いや、何も出来なかった。
唇と唇が近付いていく。カメラも近付いていく。法子の肩が思い切り露出し、ブラジャーの肩紐も見えている。コンシューマーゲームではこれが限界だが、正直法子の妖艶っぽさはかなりのものだった。
そして、全てが静寂に包まれる。伊藤ちゃんが手を上げる。法子にとって最大の選択肢が訪れた。
「俺から離れてください」。そして「……」の二つ。もはや説明の必要など無い。彩ならば前者、法子ならば後者だ。今までの選択肢から考えて、可能性として高いのは前者だ。
カメラの前に現れる二つの選択肢。静寂の中でカーソルを動かす音だけが聞こえる。
「……法子さん、もうちょっとだよ」
泰紀は馬乗りになっている法子さんに優しく語りかける。法子はゆっくりと顔を上げる。ポロポロと涙を流していた。格好が格好なだけに、ちょっと危ない感じがする。
「ううぅぅ。はっ、早く決めてくれないかなぁ。心臓が止まっちゃうよぉ」
「無いんですから止まりませんよ」
「例えですよぉ……」
「そんだけ言えるなら、問題無いです」
泰紀はにっこりと笑った。しかし、カーソルがある答えを導きだすと、その顔は一瞬で豹変した。
「……俺から離れてください」
「えっ?」
法子は素っ頓狂な声をあげる。それが演技なのか、それとも本気でそう言ってしまったのか、それは私にも分からなかった。しかし、法子も立派な役者。すぐに疲れた笑顔を見せた。
「……分かったわ」
法子はベッドから降りて、脱ぎかけの服を戻す。そして、カルテを手して扉に向かった。しかし、把手に触れる前に一度立ち止まり、こう言った。
「私は善意でやったつもりだから」
「……」
「……」
「伊藤……さん?」
「ローディングっす!」
「やっ……やった……。終わったぁ」
法子はグッタリとその場に立て膝をつく。しかし、周りは騒然としていた。
「次の舞台だ! 泰紀、走れ! 法子はゆっくり休んでろ!」
私は半泣きの法子の頭に乗りたい衝動をグッと堪えて、伊藤ちゃんと泰紀と共に病室を出た。その後に丈一と美優が続く。
特に次のシーンは丈一の台詞が多い。頼りがいの無い丈一だけに、不安は募る。だが、丈一も私の不安を余所に今まで最高の演技をしてきてくれた。今回も大丈夫だ。
「……あの人なりの事情ってやつかもしれいな、そりゃ」
「あの人の人生と、俺の人生は関係無い。あの人が過去にどんな事を経験してきたかは分からないが、少なくとも、重ねられるのは迷惑だ」
「……」
険しい表情でコーヒーを飲む泰紀を、丈一と美優は神妙な面持ちで見つめていた。
法子との出来事のーから一日経った次の日、泰紀は見舞いにやってきた二人に事の全てを話した。最初、二人は信じられないというような顔をしていたが、真剣な泰紀の顔で納得した。
「何か……まだ諦めてないような顔してた、あの人」
「何かする気なんでしょうか?」
「分からない……」
項垂れる泰紀。丈一と美優は互いの顔を見合わせ、困った顔になる。
丈一は胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。自販機の周りは喫煙コーナーだ。泰紀が手をのばす。
「俺にもくれよ」
「やめたんじゃなかったのか?」
「今日は特別だろ?」
「……あいよ」
丈一は煙草を泰紀に手渡す。泰紀は手慣れた手つきで火をつけ、大きく煙を吸い込んだ。重い、静寂の空気が漂う。
「ところで……泰紀」
「んっ?」
「お前……霧島さんの事、どう思ってるんだ?」
「……えっ?」
泰紀が顔を上げる。丈一は美優の隣に腰掛ける。
「好きなのかどうかって事だ。聞いた話だと、同情だけの恋愛っつうのは長続きしないって話だぞ」
「同情だけって……」
美優が気まずそうに丈一を見る。しかし、丈一の表情は硬い。泰紀の表情はもっと硬かった。
「お前、彼女の両親が自殺したって話聞いてから、彼女に優しくするようになっただろ?
それって同情だよな。彼女も自分同様失ったものがあるっていう。彼女はお前に負い目があるから、優しくされたらそりゃ嬉しいよ。でもそれって、同情と負い目の関係だ。普通に相手が好きだからっていうのとはかなり違う。……どうなんだ?」
本作屈指の長文を、丈一はスラスラと言ってのけた。さっきの法子の必死の演技に影響されたのか。何にしろ、見事だった。
丈一の言葉に、泰紀はまた深いため息をついた。美優が心配そうに泰紀を見つめる。だが、そんな美優も思い浮かぶ台詞が見つからないらしく、黙っている。
「……法子さんの過去にどんな事があったのかは分からないが、もし、その時の言葉が過去の経験から出た言葉だったとしたら、あの人の言ってた善意っていうのも理解できなくはない」
「……よく意味が分からないんですけど」
美優が眉をひそめる。丈一は天井に向かって煙を吐き出した。
「つまり、あの人も昔にそういう、怪我人同志というか、普通に好きだから愛したわけじゃないっていう恋愛を経験して、それが破局に終わった。多分その理由も、普通の理由じゃなかった。だから、泰紀にそれを経験させない為に、わざとあういう態度をとった。って事だよ」
「……理由ってどんな理由なんですか?」
「それは俺にだって分からない。でも、何だろうな……。同情とか負い目が時間が経って無くなれば、その後二人を繋ぎ止めておくのは純粋な愛情だろう? でも、同情や負い目が今まで先行していたから、それが無くなったら急に冷めるとか……かな」
「……お前まで勝手な事言うなよ」
聞く一方だった泰紀が口を挟む。
「泰紀、答えになってないぞ。彼女の事、どう思ってるんだよ?」
丈一は冷たく言い放つ。泰紀はそれでまた黙る。が、すぐに煙を吐き出した。
「まだ……何とも言えない。でも、一言言えるのは、もう彼女に怒りは無い事ってだけだ。時間ならある。結論を出すのは、まだ早いと思う」
そこまで言って、泰紀は煙草を灰皿に投げ捨てた。丈一も灰皿に煙草を捨てる。そして、ゆっくりと立ち上がる。
「俺はさ、お前の力になってやりたいって思ってるんだ。……残酷な言い方だけど、昔のような生活には戻れないからな。だから、俺の力が必要になったら言ってくれ」
「私もです。私なんかじゃ、何の役にも立たないかもしれませんけど……。でも、精一杯やります」
美優も立ち上がり、半ば無理矢理泰紀の手を取る。泰紀は最初は戸惑った顔をしていたが、やがて無理の無い爽やかな笑顔を見せた。
「ありがとう。もしも、必要になったら遠慮無く助けてもらうよ」
法子の修羅場に丈一の長文と、今回は大きな山場が二つもあり、正直肝が冷えた。しかし、いざ過ぎてみるとどこも文句の付け所など無かった。
「死ぬ……かと思ったぁ。ううっ……」
長椅子にだらしなく俯せになり、法子はまたシクシクと泣きだした。しかし、彼女の涙は苦難を乗り越えた証だ。今は思い切り泣かせてやろう。
「丈一さん、ごくろうさまでした」
美優が珍しく屈託の無い笑顔で丈一話しかける。丈一も法子と同じく、かなり放心状態だったが、美優の笑顔にはちゃんと笑顔で答えた。
「ああっ、ここの部分は何度も練習したからね。ちゃんと出来てた?」
「はい。私が言うんですから、完璧です」
「そう言われると安心するよ」
待合室はまったりとした雰囲気だった。エキストラ達も安心しているようだし、主演の子達も満足げな顔をしている。大きな山を一つ越えた実感が湧く。
しかし、まだ油断は出来ない。これから物語は一気にクライマックスへ突入していく。そして、そこに待ち受けるのは勿論最大の山だ。
「マスター。もうここまで来たら後少しですね」
彩が嬉しそうな顔で言う。私は首肯く。
「ああっ、後はお前のクライマックスが一番の見せ場となるだろう。しっかり準備しておけよ」
「まっかせてくださいよ! 全部頭ん中に叩き込んでありますから」
彩は頭をコンコンと叩き、自信に満ちた顔をする。こういう時だけ、彩の本当の性格に感謝する。
この後、泰紀は彩に両親の自殺の事を打ち明ける。彩は驚くものの、許そうとする泰紀に強く心惹かれていく。しかし、同時に泰紀の迷いも知る。そして、彩は“とんでもない行動”に走り、それが決め手となって二人の絆は完全なものになる。
最後の“とんでもない行動”以外、特別意識して気をつけなければいけないシーンは無い。途中、真澄の一大イベントもあるが、ここまで来ればもう選択肢は無い。失敗を経験した真澄なら大丈夫だろう。あともう少しだ。
「ねえ、マスター」
フラフラとした足取りの法子が、近寄ってくる。その顔は不安そうなものが読み取れた。何故、そんな顔をするのか、分からなかった。
「どうしたんだ? 法子。何だかんだでいい演技だったぞ」
「いえ、その事じゃないんですけど……。私、もう出番無いんですか?」
「えっ? まっ、まあな」
「……そう、ですか」
法子はとても残念そうな顔をする。さっきのシーンを最大の力でやった法子だけに、あれで終わるのは淋しいのかもしれない。だが、ユーザー様が法子を選んでいない以上、法子の出番はもう無い。あそこで断れてしまった以上、法子はもう泰紀には近づかないのだ。
「また次があるじゃないですか、法子さん。とりあえず、最初は私って事で」
「本当に次があるんですか?」
「……へっ?」
いつになく真剣な表情の法子に、彩も笑うのをやめる。他の皆も浮かれた表情をやめ、真面目な顔つきで法子を見る。そんな目を法子は、今まで見せた事も無いような、真面目な顔で見つめ返していく。
「法子……お前、何言ってるんだ?」
私が言うと、法子は俯き、苦笑を漏らす。その表情はよく分からなかった。
「マスターはいいですよね。……出ないんですから」
法子の言葉に、私は全身が凍り付いたような気がした。法子は顔を上げ、続ける。
「私、もっと出たいんです。例え、ユーザー様が私狙いじゃなかったとしてもです」
「法子ちゃん。それはわがままってヤツよ」
真澄が宥めるような口調で言う。しかし、法子はさっきよりもより険しい顔になる。
「本当にわがままなんですか? 私達、自分達の意志でここに生まれたわけでもないのに、なのにここで演技をしなくちゃいけない。……少しくらいわがまま言ったっていいじゃないですか……」
法子が放った言葉に、真澄は勿論、他の誰一人として言葉を返す者はいかった。辺りは一瞬にして物音一つしなくなった。
「……」
自分達の意志でここに生まれたわけじゃない、なのにここで演技をしなくちゃいけない。
誰しもが一度は思い、そして忘れなくてはいけない事を、法子は口にした。
「私……もっと出たいんですぅ!」
法子は私を見てそう叫んだ。だが、私はそんな法子にいい顔を向ける事は出来なかった。
「法子……。努力するという事は、自由に出れるという事ではない」
「でもぉ……」
「でもじゃない。私達の仕事はユーザー様にゲームを楽しんでもらう事だ。それは……私たちが楽しむ事とは少し違う。だから、お前の言う事は聞けない」
私は一言一言をゆっくりと言った。前にもこんな風に法子を説得した事があったな、と思った。
法子は俯いて唇を噛む。しかし、パッと顔を上げると、
「すいませんでした」
とそれだけ言って、待合室から去っていってしまった。残された私や他のキャラ達はあっと言う間に消えてしまった法子の影を見つめていた。その間、何もない静寂が通り過ぎていった。
「……何だか、これからって時に気分が萎えるわね……」
そんな静寂を打ち破ったのは彩だった。きっとこの重い空気に耐えられなかったのだろうが、今は嬉しかった。
「あんまし考えたくなかった事なんだけどな」
「そうそう」
泰紀が同調の笑みを浮かべる。主役の二人にとって、あの一言はかなりきつかったはずだ。なのに、二人は何でもないような顔をしている。
「マスター。マスターが浮かない顔してどうすんですか?」
「あっ……ああっ」
「みんな、分かっていた事なんです。今更言われたって、何とも思ってないですよ」
美優が私を抱き上げる。そんな美優の顔は、とても暗く落ち込んでいるように見えた。
そう……。生まれた時、誰しもがこの事を考える。何故自分達はここで演技をする為に生まれたのか、と。しかし、その答えを知る者はこの世界にはいない。だから、永久に答えなど出ない。だから、私を含めて皆、その疑問を心の奥底に隠して、見知らぬ天上人の登場を待っている。
「マスター。僕、法子さんを探してきます」
「私も行くわ。同じ出番の少ない同志、話も合うでしょうから」
丈一と真澄が一緒になって待合室から離れていく。二人は彩や泰紀達に比べると出番は少ない。真澄がヒロインの場合であっても、やはり彩に比べると出番は少ない。だからなのか、二人は彩や泰紀に比べて少し元気が無いように見えた。
「何の心配もしなくていいんですよ、マスター」
そんな私の表情を読み取ったのか、彩が私の頭をポンポンと叩く。この子はいつもこんな感じだ。だからこそ、本当はどう思っているのか分かりにくい。実は凄く思い詰めていて、それが今後の演技に支障をきたさない事を願ってしまう。
「泰紀。次、私達だからさ。病室、行かない?」
「えっ? ……ああっ、そうだな」
そう言うと、二人は私に声も掛けずに行ってしまう。美優に抱かれたまま、私は何も言えずに二人を見送った。